チラ水

白い暖簾をくぐる。「いらっしゃいっ!!」威勢のいい声が店内を飛び交う。
ここは、元築地マグロ仲買人が営む新鮮な魚が評判の定食屋だ。

「ビーテー」課長が常連風な言い回しで、B定食を注文する。なぜかすこし得意顔だ。
「おんなじ」主任が間髪入れずに同調する。
「やっぱり、ここのB定食は最高ですよね」主任は媚を売ることも忘れない。
「じゃあ、B定食を3つお願いします」ボクは注文した。

この流れで、入社3年目のボクには、B定食以外を注文する勇気はなかった。。。
参考までに、ボクが本当に好きなのは鶏肉定食だ。

となりのテーブルには、先客がひとりいた。
年齢は40歳くらいだろうか。ラグビー選手のようながっしりとした体つきで、
スキンヘッドにサングラスと、いかつい風貌だった。
サングラスは、顔の面積に比べると小さ過ぎる気がした。
もう冬なのに、黒い半袖のポロシャツ1枚だけ。下は毛布のような生地の黒い短パンだった。
日焼けした太い腕には、オレンジ色のエルメスのAppleウォッチをつけている。

課長の説教が始まった。
いつものことだ。主任が缶コーヒーの買い出しに行った時の話だった。
昨日は、課長お気に入りのエメラルドマウンテンが売切れだった。
主任は何も買わずに手ぶらで帰ってきたそうだ。

課長が大きな声で話し始めた。
「そういうときはだな。何でもいいから買ってくればいいんだよ!
 八百屋に行って、キャベツ売ってなかったらレタスぐらい買ってくるだろ!!」
と器が大きい理想の上司風のことを言った雰囲気を醸し出した。
ふと思った。キャベツではなくレタスを使った回鍋肉はおいしいだろうかボクは言葉をグッと飲み込んだ。

隣のおじさんが注文した料理が届いた。
「エビフライ5本定食、お待たせっ!」

ボクたち3人は一斉に「チラ水」をした。
チラ水とは、隣のテーブルに料理が届いた時、のどは渇いてないけど、水を少し口に含み、
横目でチラッと隣の料理を見る行為のことだ。

えっ!エビフライ5本定食なんて、メニューに存在しないはずだ。メニューを確認する。やはり3本だ。
エビフライは「おかず能力」が低い。だから、2本追加したのだろう。

おじさんは、エビフライにソースをべっとりかけた。そして、しっぽからバリバリ食べはじめた。

あぁ。。。この人は自由だなぁ。。。

ボクは小学生時代を思い出した。
当時、「エビフライのしっぽを食べると、足が速くなる」という都市伝説が流行していた。

運動会の前日、小学生がいる全家庭の夜ごはんは、エビフライだった。
事実毎年、近くのイオンでは、エビが売り切れになっていた。
しかし、ボクの家は違った。
「よるごはん、エビフライして!」と母さんに言わなかった。いや、言えなかった。
足の遅いボクが、1等を獲りたい気持ちを示すことは恥ずかしいからだ。
だから、運動会には無関心を装っていた。
ボクは、臆病者のくせにカッコばかりつけてる非モテ小学生だった。
そして、いつしか、ダメな自分を認めたくなくて、エビフライを食べなくなった。

「B定食3丁、お待たせっ!」ボクたちの回鍋肉が到着した。
回鍋肉の「おかず能力」はいつだって最強だ。エビフライなんて白米が余ってしまうではないか。
まてまてまて、そもそも「おかず能力」ってなんだ?
長年、ボクのおいしさ基準は、ごはんを何杯食べられるかだった。
これってもしかしたら塩分が多いかどうかというだけの話かもしれない。
回鍋肉定食とエビフライ定食の2択だったら、迷わず回鍋肉を選択してきた。
だけど、エビフライ5本定食がこの世に存在するなら話は違う。
ボクは、会社に戻ってからも何か悶々としていた。家に帰ってからも。ふとんの中でも。。。
ボクが人生においてしてきた選択は間違っていたのか?
ボクは誰かが創った世界の中で生きているのではないか?
ボクが生きているのは現実の世界なのだろうか?
これまでずっと漠然と感じていた疑問が、頭の中を駆け巡る。
この日の夜、ボクは眠れなかった。
食べたいものも食べられない人生なんて。。。
たくさんの言い訳が、雨のように降り注ぐ。

うぉーーーーーーーーーーーーーーーーー

ボクは、エビフライを5本にする発想力と経済力がなかったことを認めた。
もうダメな自分から逃げるのはやめよう!自分の人生を取り戻せ!
このおじさんに出会い、ボクは自分の人生を生きていないことに気づいた。
おじさんは、リアルワールドへの扉を開いてくれたのだ。

今日、ボクは黒のポロシャツを着て定食屋にひとりで行った。
エビフライ5本定食を頼む。
料理が届くと、両サイドのテーブルから一斉に「チラ水」される。
ソースをたっぷりかけてしっぽから食べる。バリッバリッ うまい。。。
ときどき、しっぽが頬の内側に刺さる。生きていることを実感する。。。

エビフライ定食を食べ終え、外に出る。
ボクのアップルウォッチは1時20分を指していた。
ボクは会社とは反対の方向へ走り出す。昨日より少し速いスピードで。

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